面影木蓮。


 

photo 201602 a door of temple

過日、九品仏の寺を散策していると、あれは木蓮であろうか。門をくぐれば、満開の白い花がでむかえてくれた。門の奥で手をあわせると、「開」という字になる。鳥居のような形は右手と左手があわさりを意味する。右手の「口」は白川静の根幹をなすサイ、言霊が封印された箱を示し、それが門の奥にあったならば「問」という字に姿をやつす。このサイのうえに針が刺されると、「音」になる。したがって、サイを封印する音が木蓮の美白に惹かれ、門をくぐればたちまち「闇」夜がやってくる。

肝要なのは、ビックバン時代の残響が、今も木蓮一輪のなかで微音を奏でているということなのかもしれない。

幾重ものコンティンジェント。眼前の門はひらいているのに、その奥へはいれるのだと悟る者は少ない。神仏に手をあわせるというのは、こういうことなのだろうとおもう。ところで、右を向いた人間を並列させれば、「比」に。左をむいた人間を十字路で並列させれば、「従」という字になる。そう、人とのであいも、或る意味合掌なのだ。背(そびら)同士をあわせれば「北」になり、片方の天地を逆さまにして合掌すれば、それはたちまち「化」という字に化ける。

凡てのであいを同時に。

釈迦の合掌というのは、本来、そのようなものではなかったか。門の奥に陽をいれて、まことに手間がかかった手のあわせ。たったひとつの合唱をどれだけの角度から視れるのか。たった一本の木蓮をどれだけの時空から愛でれるのか。たったひとつの宇宙にどれだけの物語があるのか。これらは凡て相似律でなければならない。「語」とは言霊に幾重もの蓋がされた形である。これ以上はぽっかりと口をあけて寝こけている門に尋ねられよ。そうそう、わかりにくいかもしれないが、「尋」も右手と左手があわさってできた漢字である。