眼前の境界線


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例えば、英語圏の人は肉屋に並ぶ動物の肉に冠詞のAをつけたりしない。境界線が曖昧だからである。したがって、残酷な状況ではあるものの、車に轢かれた犬猫などにもAはつかない。要は、*a waterなどと一般的に云わぬ理由と同じである。液体にはそもそも境界がないのだ。

ところで、言語学者のRay Jackendoffなどはこの視点を出来事にも延長させている。「走る」という行為であれば、これは着点がない限り、永遠に走っているのだから、液体的な出来事と視た。一方、「毀す」という行為であれば、例えば花びんが毀れた時点で、出来事に線が引けるから、これは個体的な出来事と分類したわけである。学術的には、有界性(boundedness)と云ったりする。

さて、新たなるものというのは、常に境界からやってくるものである。橋姫伝説にも含まれているように、かつては村と村の境界に橋があって、異人や稀人がそこを通ってやってきた。情報はひとりでいられず、常に新情報を求める。私たち人間も情報体のひとつである。遠き祖先の血源には宇宙の彼方からやってきた情報が流れているものだから、常に人は遠き境界に憧れを抱くようにプログラミングされているわけなのだ。

人の血と風を辿るに、遠き境界を求めて宇宙を旅するのも理解はできるが、いささかこのような西欧的移動は限界がきているのではないだろうか。島国日本では、茶室に代表されるように宇宙を眼前の何畳かに編みこみ、そこに宇宙の境界を視てきた。ひとりやひとつからAをとり、果ては広大無辺な宇宙あるいはその外側と和合していった。新しきは常に眼前にあるが故に、人は不動にして悟ることができる。