男における粋。


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 粋とは何かと定義することから野暮な氣がしないでもないので、とりあえず野暮なことをしないという風に逃げてみる。

 では野暮とは何かと云うと、まずは人まえに晒すべき筋合いではない類のものを、語ってしまうことではないだろうか。足穂翁の言葉を盗めば、

「自然界を視たまへ、一切は黙々として運ばれている」

といったところか。言葉不用・智者不言の世界が眼前にあるのを氣がつかないのは、やはり野暮である。特に晒してはならぬ暗黙の相場なるものがあって、それは昔から女と食であったが、これはSNSによりかなり毀れた。高級レストランの食事と美女を同時に投稿してしまった日には、もはや輪廻を幾度かくりかえしてもなお残る野暮をやってしまったという絶望感を抱いたほうがよろしい。 

 ところで、西欧臭きプレゼンテーションに長けた社長が国内に増えたため、ただそこに居るだけで、否、居るということさえ社員から忘れられている老荘的な大社長が減ってしまった。寡黙なぶん、この手の男は粋なパタンが多かったのに。俗世なる不自然に黙々と溶け込んだ人間がいないが故に、粋が死語になったのだ。

 第二か第三かわからぬが、お次の野暮は、肉を鍛える衒いだろうか。「身だけ美しければよし」とする日本古来の躾教育を支える背景には、折り目ただしき軀というのがある。折るのは無論、肉ではなく骨になる。不自然な肉のトレーニングは、骨の折り目を濁してしまう。折り目ただしき軀のなめらかさは、微かなる感覚を裡で維持するのにひと役つとまる。

 あゝ、粋とはこの微々たる感覚維持のリュックシャオか。ひとり納得したので、尻切れとんぼで今宵のひとり言をとじたひ。