無一物中無尽蔵。


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 過日、茶室に雪底老師のお軸が飾られてあった。

『無一物のなか、無尽蔵。花あり月あり楼台あり』

の前半が草されており、その傍らには満月をおもわせる円相がある。床には山のような岩が飾られ、そこだけで或る満月の夜が香ってきそうだ。棚は云うまでもなく、楼台であった。

 この軸を拝見するのは、おそらく十数回目、すなわち十数年、茶道の稽古を続けてきたことになるのだけれども、なぜか例年以上に心に沁みいってきた。

「おまえはいつも道理を外すから、道理のあるところに行け」

と清水克衛に云われてはじめた茶道。まさかカンボジアに茶室をたてるような流れになることは夢にもおもわなかった。そもそも私は最初、半ズボンで茶室に伺い、正座すること三時間。みっちりと茶道における着物の歴史を説かれたのだ。現在は日本で稽古し、カンボジアで教えるという機会に恵まれている。

「先生、無一物中無尽蔵というのは、ゼロのなかに凡てがあるという意味でしょうか」

 私はこんな野暮なことをふと訊ねた。例年なら決してしないことではあったが、過日の私には、己の心境がよく映った言の葉であったし、カンボジアにいくようになり、余計に日本の先生方とあと何回お会いすることができるのだろうと頭をよぎるようになったからである。もっとも一期一会を生きておらぬと叱られそうであるが。

「心が澄んでいれば、たとえ何もなくても心のなかに、花があり、月があるということですよ。私なんかはまだ欲があるから、時折、むこうの茶室で紹鴎を呼んできて……。呼んできてというのは失礼な云い方だね。おいでいただいて、紹鴎にお茶を点てているんです。すると、あゝ、こういうことだったのかと自然に教われるものがあるんです」

 と微笑してくださった。「こんな日本人の方がいらしたのか」と心を動かされた最初の人の微笑みである。日本一と称される茶人は、昔のマレビトを靈的に呼びおこされては、なお古き頂へとのぼろうとしている。私が濃茶を切りおわると、その日の茶碗は高麗茶碗で、朝鮮の人間国宝がつくられたものだと教えてくださった。

 無一物中無尽蔵。茶碗のなかにも月がはいりそうだ。