『二流なるカリスマ』


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   教育者やコーチにおいてカリスマ性なるものは眉唾になることが少なくない。なぜなら、クライアントにとって最も寛容なことは自力でできたという体験であり、本来は無限他力であっても、自力でなしとげたという過信が必要な時期もある。その際にカリスマ性がブローカーとしてはいると、途端に消極的他力へと陥ってしまう。『老子』十七章にはこうあるではないか。

                太上、下知有之。

もっともすぐれた君主のもとでは、人民は君主が存在することさえ、忘れているという意味である。

   ところで、自動詞には一般的に非対格動詞と非能格動詞のふた通りがあると云われている。いわゆるたしかなコーチングというのは、前者における

The door opened.

openに視られるspontaneous(自然発生)的な性質が必須で、きっかけになっても構わぬけれども、それが、

Mary opened the door.

といったような他動詞的ベタつきが生まれてしまってはかなわないのである。

   要は、一流であればあるほど、教育者には老子性が添えられ、外界が自ずと育ってゆく。逆に云えば、カリスマと云われた時点で、教育者は道半ばだと猛省したほうがよろしい。一切は他力が故に、完全なる自力への道草が必要なのだ。