そびらの風姿。


picture 20160723 khmer lady

 

日本プロテニス協会のプロテストはなかなかおもしろく、科目のひとつに初対面の生徒が要望するものを、二十五分で叶えなければ失格というものがあった。こちらとしては、微笑しながら自己紹介するも、準備体操に運動神経がわかる種目を組みこんだりと、裡ではレッスンの段どりに忙しかったりする。無論、生徒との巡りあわせも多分にあり、私の傍らでテストを受講していた友人などは、錦織圭の看板であるエアーKを打ちたいなどとぬかす中年男性の担当コーチになり、忘れもしないが、その中年はウォーミングアップの初球をインドアコートの屋根につきさしていた。結果は云うまでもない。

このときの師の指導で、私は初対面の人の利き眼から脳のクセと呼吸量を読みとり、利き肺から捻転傾向を識り、仙骨の向きで運動神経を未だに視てしまう。太古、顔も声も異国の者に一切視せなかったという皇帝が少なくなかったというけれども、しごく賢明なことではなかったか。メンタリストごっこはとしを重ねるごとに飽きたものの、飽きれば飽きるほど、人のうしろ姿というものはそびらを通さずとも生生しく視えるらしく、今ではその方の未来まで時折、流れこんでくる始末である。まさに、

そびらの風姿だけは誤魔化せぬ

といった視線こそ、師そのものであると云ってもよかった。そびらの中央をはしる脊椎には、子孫が犯した罪に対する怨念靈や地獄靈といったものが浮かびやすい。たしかな靈力者にそういった背景をとってもらえば、人の運氣は加速するような唐栗になっているのだが、その源泉にはやはり仙腸関節にはさまれた仙骨の立ち姿があり、人のさまを編んでいるのであろう。

ボンケンコンのホテルにあった絵を眺めていて、ふとこのようなことを想いだした次第である。