『名のらずが花』


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過日プノンペン郊外で教授たちの研修をしている際、日本とカンボジアの姓名の話になった。日本と同様、クメール語にも名に意味がある場合は多いということであったが、漢字のおもしろきところは、例えば『觀』一字のなかに、目があり口あり、艸があって、それぞれの背景が一字の空間に折り込まれているということである。このような理由から漢字圏の名というのは、必然的に夥しい靈性を帯びる。

   たしかな名への眼差しはまず音で木火土金水の特性に注がれるべきで、意味論ならびに陰陽学をはさんでから、ここでようやく画数を視る。画数だけ視ているから占いに堕すのであって、本来は名が靈を産し、靈が身を築き、身が心をつくっている。したがって、名を視れば、その方の靈すなわち一期が手にとるようにわかる。名がまことによくてなお逆境にある方は滅多においでにならないが、もしそれが永くつづく場合は大概、身がズレている。このような理由で、私は名がよいものだけの仙骨と蝶形骨は水面下でいじるようにしている。所詮、軀は両骨のあいだで起こるオーケストラに過ぎないからだ。兎にも角にも、はじめに名ありき故に、名は秘すべきである。